2022.04.27

アトツギ物語青年期編前編

時代はバブル絶頂期。テレビを付ければ、ジュリアナ東京で扇子を持ってお立ち台の上でボディコン着て踊ってるお姉さま達を観て、大人になったら1度はジュリアナ東京に行ってみたいと思ったりしている時代でした。
(残念ながら、私が大人になる前にジュリアナ東京は閉店してしまいました)

私は高校生となり、一応、街で一番の進学校に通うことになりました。

しかし、流石は進学校。周りはみんな頭が良く、私は学校の中でも下位というか、下から数えた方が早いぐらいの順位となり、先生から見下される生徒となってしまいました。

まぁ、そうなると、学校に行くのも楽しくなく、高校二年生の時は、よく、学校をサボって片道1時間ほどかけて福岡市天神に遊びに行ってました。
(東京の感覚だと距離、田舎具合の感覚から言って、青海から渋谷に出るような感覚です)

もちろん、高校生の間も夏になれば、カブトムシ、クワガタムシを売って稼いでました。

高校卒業する頃には、数百万円貯金があったと思います。

いよいよ受験となると、先生から見下され、お前なんか大学に受かるわけがないと言われて頭にきたので、福岡では割と有名な私立大学を3つ受けました(国立は無理でした(笑))。

その中で1番偏差値の高い私立は落ちました(まぁこの大学受かるなら国立のどこかは受かったでしょう)。そして偏差値でいうと60を少し切るぐらいの九州では1番大きな私立大学には受かり、合格通知を先生に渡しに行きました。

先生に褒められるとは思ってはいませんでしたが、せめて、おめでとうぐらい言われるかと思ってましたが、フンと鼻で笑われただけで無言のままでした。

私がここまで偏差値や頭の良さにこだわったのは(と言ってもレベルの低いところでの話しないんだが(笑))、学校の先生から頭が悪いために徹底的に虐められたからでした。

今の時代なら間違いなく、問題になっていたでしょうが、私が高校時代なんか体罰当たり前、体罰で生徒が死んでもほんの少しだけニュースになる程度という時代でした。

頭が悪いと言うだけで、竹刀を膝の内側に挟んで正座させられ、両手を上に上げて目をつぶり、先生から竹刀でボッコボコに叩かれます。しかも、なぜか、叩かれる度に「ありがとうございます!」と言わなければなりません。

また、時には職員室に呼び出され、模試の結果を大声で先生にその場で発表されます。そして、周りの先生からもはぁ〜とか、情けないとか、罵倒されます。

他にも色々ありましたが、まぁとにもかくにも、先生から徹底的に虐められました。

同時に父の頭の良さがコンプレックスにもなり、トラウマとコンプレックスを足して二で割ったような精神状態になり、私の深層心理に深く突き刺さるのでした。

そうこうしているうちに、高校を卒業することになり、進学か就職か浪人か決めなければなりません。

そんな時、父にこれからどうするんだ?と聞かれ、父がアメリカに留学という方法も1つ選択肢を追加してくれました。

今、考えると、素直にアメリカに留学しとけば良かったのですが、バブル絶頂期のため、日本にいた方が将来は明るいと思ってしまいました。

そして、元々、大学には行くつもりはなかったため、大学に行くことも辞退しました。

そうすると選択肢は就職か浪人ですが、元々大学に行く気が無いわけですから、必然と就職となったわけです。

この時、私は父の会社に就職するのが当たり前と思い込んでいましたので、父の会社に就職してあげるよぐらいの感覚で父に話しました。

そうすると、父は当時、既に会長になっていましたので、当時の副社長が私を面接することになりました。

私は面接という事がよく分かっておらず、ましてや、就職してあげるよぐらいの感覚ですから、面接を死ぬほど甘く見てました。

私が当時、副社長やってたら、私を見て、即、不合格出してたでしょう。

思いっきり、私服でシャツもズボンの外に出し、その時の流行の言葉でいうところの新人類の流行の格好をして面接を受けました。しかも、自分の家に副社長が来て面接を受けるという(笑)

副社長にお会いした最初の言葉が、

「着替えてこい!」

でした。

普通、面接ならスーツぐらい着ますよね…汗

ただ、スーツは持っていなかったので、とりあえず、数日前に卒業した高校の制服を着て面接を受けました。

まぁ、面接と言っても、会社の話しや仕事内容の話し、研修の話しとかを聞いただけですが。

まぁ、いずれにせよ、私は父の会社に高校卒業後、就職することになったのでした。

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